2020年5月5日火曜日

「横浜防火帯建築を読み解く」出版について

ブログをご覧くださりありがとうございます。このたび横浜の防火帯建築をこよなく愛する有志メンバーとともに、「横浜防火帯建築を読み解く」と題する書籍を花伝社より出版する運びとなりました。建築の楽しみ方は人それぞれ。ぜひ手に取っていただきご批判いただければと思います(クリックするとamazonサイトにとびます)。

2016年6月7日火曜日

「防火建築帯」と「防火帯建築」


この2つの用語、一見しただけでは違いが分からないため、いちど整理してみたいと思います。

「防火建築帯」

「防火建築帯」は昭和27年5月31日に静定施行された「耐火建築促進法」に出てくる言葉です。この法律は同年4月17日に発生した鳥取大火を受けて延焼防止帯となる路線型の防火帯を形成することを目的として生まれました。鳥取大火以前からも都市不燃化運動を受けた法律制定の動きはみられており、防火帯をできるだけ細かく造成していくことによって最終的には都市全体を不燃化することが目指されていました。

防火建築帯の指定は建設大臣が行い、「地上階数三以上のもの若しくは高さ十一メートル以上のもの又は基礎及び主要構造部を地上第三階以上の部分の増築を予定した構造とした二階建のものであるときは、当該耐火建築物の地上階数四以下及び地下第一階以上の部分(第六条)」について補助金交付を定めています。防火建築帯の多くが4階建てなのはこのためです。なお、建築基準法、都市計画法上の防火地域(路線式の場合)指定は奥行き11m(市街地建築物法時代の防火地区指定における奥行き六間を継承)であり、促進法との整合について、当時の建設省通達(第651号)により示されています。

昭和32年11月発行「都市不燃化運動史」によると、防火建築帯としての効果と、指定区域内の経済力を考慮する等の理由から、なるべく都市の中心部の繁華な商店街を選定することが推奨されています。また、人口10万から20万程度の都市では人口1万につき道路両側にあるものとして延長合計約120m(片側のみなら240m)が標準的な長さとして示されています。東京、横浜、大阪、名古屋などの大都市を除くと、ほとんどの都市においては防火建築帯の指定は目抜き通りが指定されることが多かったと言えます。

地方都市における防火建築帯の例(鳥取市若桜街道(左上)、山形市すずらん通り(右上)、魚津市中央通り(左下)、宇都宮市(右下))。当時は建築家が商店街空間のデザインに参加していた。山形市(駅前)と魚津市の防火建築帯には不燃建築研究所も参加。この他、沼津市の防火建築帯(建設工学研究会(池辺陽ら))によるものなどが有名。

「防火帯建築」

横浜では耐火建築促進法の施行と接収解除の時期が重なったため、都市の復興を加速するために耐火建築促進法を積極的に活用することが選択されました。昭和32年ごろには防火建築帯指定総延長が35キロを超え、総延長では東京(約122キロ)、大阪(約119キロ)に次ぐ長さ(名古屋は約26キロ)ですが、その指定密度の高さは他都市に例を見ません。

大都市における防火建築帯の指定区域比較図(セイムスケール)。横浜がいかに高密度に指定されているかがわかる。

横浜市の初代建築課長であった長野尚友氏は、昭和27年10月、建設省から来た内藤亮一氏を二代目の建築局長に迎え、内藤とともに横浜の戦後復興を強力に推進しました。ある程度戦災復興事業が一段落しつつあった他都市と異なり、接収解除の時期と重なった横浜は、この防火建築帯造成事業が復興事業そのものでした。内藤によって防火地域が大幅に拡充され、幅員8m以上の道路沿いに防火建築帯を指定し、これで囲まれた街区がほぼ100m四方となるように考えられました。

一方で、関内牧場と揶揄された荒れ地に、本当に計画通りに造成されていくのか見通しは立っていませんでした。接収解除も段階的に進められたことからまとまった計画も建てにくく、不燃建築とはいえ小規模なビルが個別に建ち並んでしまう恐れもありました。そこで共同建築を強く推奨するとともに神奈川県住宅公社の公的賃貸住宅 と併存する場合には横浜市建築助成公社からの融資金を引き上げ自己負担金ゼロで建築を可能とするなど特別な仕組みが設けられました。

このような経緯から、横浜ではまとまった防火建築帯の造成が困難であり、その代わり個々の復興建築を別途「防火帯建築」または「ハマの防火帯建築」と呼び分けるようになっていったと思われます。たとえば昭和27年の神奈川新聞紙上では、すでに防火帯建築という呼称(防火帯内建築の意味)が使われており、神奈川県住宅公社では、さらに共同建築であることを強調するため「防火帯共同ビル」という呼称を用いていた時期もありました。

他都市では、たとえば沼津では「アーケード」、蒲郡では「サクラビル」、宇都宮では「バンバビル」など、「防火建築帯」とは別に固有の名前(呼称)が使われている都市があります。横浜の「防火帯建築」も、これと似たような文脈で使われてきた横浜固有の呼称と言えるでしょう。それにしてもややこしいですが。

神奈川新聞1952年12月7日

神奈川新聞1952年12月20日

神奈川新聞1953年1月10日(記事中の不鮮明箇所を一部編集)

横浜の防火帯建築群。間口方向80m程度の長さを持つものもあるが、20~30m程度のものや数m程度の小規模なものも多い。

参考文献: 横浜市建築助成公社20年誌、都市不燃化運動史、水煙会報、ほか

2014年11月27日木曜日

富士見町共同ビル

長者町3丁目交差点から内陸側に3ブロック。T字路の角に富士見町共同ビルは建っています。横浜市建築助成公社から融資を受けて昭和33年度事業として建てられた第一タクシー(株)(当時)と神奈川県住宅公社による共同再建(併存住宅)ビル。施工は長者町通りでも共同ビルを建設中だった関工務店が請け負っていました。

永楽町・真金町は、かつての遊郭街の名残をとどめる町。遊郭が永楽町・真金町に移ってきたのは明治15年ごろまでさかのぼります。山田町、富士見町の3、4丁目をふくむ一帯が遊郭移転地に指定され、このときに町名が「永楽町」「真金町」へ変更されました。妓楼が建ち並び、の並木が演出する異世界へ。伊勢佐木町から近かったこともあり人が流れ込み急速に盛り場へ変貌を遂げていました。

一方で、道をはさんだ山田町、富士見町側は職人町として、輸出の下請け業者が集まっていた労働者の町でした。大正9年には富士見町に職業紹介所が設置され、労働力供給の拠点ともなっていました。

戦災で大きな被害を受けたのち、山田町、富士見町側だけが占領軍に接収されました。つまり、山田町・富士見町と、永楽町・真金町との町境の通りは、占領軍による接収地と非接収地の境界線となりました。もともとひとつだった町は、遊郭移転を機に道を挟んでふたつに別れ、戦後もそれぞれ異なる運命を辿りはじめたわけです。

そして接収解除。山田町、富士見町には神奈川県住宅公社や日本住宅公団によって復興住宅団地が防火帯建築として次々に建てられました。現在、公社住宅と公団住宅は建替えによって高層化され、計672戸の都心賃貸(URは一部分譲)、約2千人が暮らす住宅地に成長しました。

富士見町共同ビルは、終戦後10年以上経って、この街がようやく戦後の第一歩を踏み出した姿を残しています。

(参考:横浜市建築助成公社20年誌、中区史、横浜関内地区の戦後復興と市街地共同ビル(神奈川県住宅供給公社)ほか)

横浜市防火建築帯造成状況図(昭和33年)から。富士見町(永楽町側)のL字型の建物が富士見町共同ビル。住宅公団の山田町アパートは、防火帯とは関係なく南面並行配置が徹底されている。中央下(千歳公園東隣)の5棟の建物は神奈川県住宅公社の山田町第一・第二共同ビル。昭和36年に公団山田町アパートの隣地に県公社が山田町第三共同ビルを建てることになるがまだ載っていない。濃い赤は竣工済み、ピンクは計画決定、オレンジが防火帯の造成構想。造成途上のようすがよくわかる。

富士見町共同ビルの竣工当時の写真(県公社資料より)。施工は関工務店。このころになると、下層階の店舗、隅切り部の意匠、通りにバルコニーを向けて街区内部に片廊下を置く配置、街区内部への引き込み動線を兼ねた両側外階段など、横浜における防火帯の建築言語が整ってくる。

富士見町共同ビルの現在のようす。竣工当時の外観をよく残している。下層階には、不動産、バイクショップ、中古車販売、飲食店などが入る。

街区内部への引き込み動線を兼ねた外階段。側壁は防火帯の延長を予測しているのか両側ともに窓もなくのっぺりとしたもの。街区内部は時間貸し駐車場となっており、空地をつくりだす防火帯建築のねらいを体験できる。