2013年8月1日木曜日

はじめに

このウェブサイトは横浜関内外地区にのこる(あるいはなくなってしまった)防火帯建築を紹介するサイトです。
横浜には、戦災と長期接収の二重苦を乗り越えた努力の跡がたくさん残っていますが、これを紹介するまとまったサイトがなかったためつくりました。

このサイトでは、「防火建築帯」 と「防火帯建築」の二つの用語を意識的に使い分けることにしています。

「防火建築帯」は耐火建築促進法(昭和27年)のなかの法律用語です。この法律は、同年4月に発生した鳥取大火を機につくられました。
横浜では、戦災・接収の二重苦からの復興をはたすために、この法律にもとづき当時の横浜市建築局長内藤亮一によって防火建築帯づくり(防火建築帯造成事業)が計画されました。
最初期は中心部を総延長32.4kmの計画として、そしてこれは少しずつ延長され、昭和33年頃には総延長35kmを超えました。

しかしこれはあくまで計画(つまり目標)であり、昭和36年に法律が廃止となる(同年に、防災建築街区造成法が施行されたため)までの9年間と、横浜市が独自に経過措置を設けた1年間を加えた10年間に横浜中心部に造成された間口長さは最終的に約6kmに留まりました。(横浜市建築助成公社による融資実績として。非助成分を加えた間口長さは約9km)
このため、「未完の事業」として事業としてはいわば中途半端なまま終わってしまったと誤解されることが多いようです。

「防火帯建築」は通称であり法律用語ではありません(法律用語としては「耐火建築物」)が、横浜の特徴をよく表現していると思います。
つまり、帯であるまえに建築であるということ。ひとつひとつの建築の集積が帯を成し都市をつくるということ。です。夢のある希望のもてる目標を高く持ち、官民がそれぞれ努力して次の世代に胸をはることのできる都市を残していく。

その精一杯の努力が6kmにも達していたのです。

私たちの身近に残っている、とりたてて名前も付けようのない建築に目を向けていきたいと思います。

横浜市防火建築帯造成状況図(横浜市中央図書館蔵)
昭和33年3月横浜市建築局