2013年8月8日木曜日

萬国貿易ビルと早川ビル

横浜市建築助成公社が耐火建築融資をはじめたのは昭和27年度から。

初年度に7棟の防火帯建築が建てられていましたが、すべて建築主は1名による個別再建でした。
最小のものは建築面積が50㎡にも満たず、最大でも253㎡といずれも小規模なビルばかりでしたが、横浜の戦後復興はここから本格的にはじまったのです。

そしてこの7棟のうち5棟が万国橋通りと馬車道通りに面しています(うち3棟が現存)。
本町通りからみて海側が万国橋通り、陸側が馬車道通りで、この二つの道は横浜港初の近代的な埠頭として明治後期から大正にかけて建設された新港埠頭と吉田橋をつなぐひとつの道です。

弁天通りが、1872年に開通した桜木町駅を利用する外国人や日本人向けににぎわってきたのに対して、万国橋通りや馬車道通りは、船が停泊して荷物や人が往来する通りとして栄えてきました。吉田橋の先にはさらに伊勢佐木町通りへと続きます。

接収解除後に真っ先に立ち上がったこれらのビルから、復興を待ち望んでいた横浜商人の期待と底力を感じることができます。

横浜市建築助成公社による融資第一号の(融資第一号は港ビルでした。訂正します。2015.10.10)初年度融資を受けた萬国貿易ビル。当時の写真をみるとホテルとして使われていたことがわかる。戦後まで関内でしばらくみられた移民宿の名残りか、あるいは、外国人向けか。おそらく後者か。ガラス窓は、蔀戸のように開閉する形式のものだったらしい。

現在はギャラリーや設計事務所、セレクトショップなどが入居している。当時のスチールサッシは1階の一部にのこっているが開閉はできなくなっている。

馬車道通りの早川ビル。現在は2、3階に指圧・マッサージの治療院が入っているが、竣工当時はレストランだった。隅切り部に上階のエントランスが設けられためずらしい設計。

隣接するビルの側には外階段が設けられていたが、現在は取り除かれ、壁面に鉄扉だけが残されている。


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