2013年8月25日日曜日

長者ビルと第三大場ビル


関外エリアで、日ノ出町方面と山元町方面を結ぶ通りを長者町通りとよびます。

昭和初期には横浜市電(路面電車)が通り、中心部の関内や、関外でも繁華街となっていた伊勢佐木町通りとは違って、庶民的な雰囲気を持つ通りとして親しまれていました。とくに埋地地区とよばれる、運河に囲まれたエリア(寿町、翁町、扇町など)に隣接する長者町1~4丁目は、5~9丁目と比較してとくにそのような(庶民的な)性格が強かったようです。

この埋地地区には、明治中期ごろには、関内の隣接地として輸出貿易関連の家内工業が集まってきていました。産業構造は大きく変わりましたが、今でも長者町通りに自動車やバイク関連の工場や、インテリアや服飾関連の事業所などの同業者が比較的多く見られるのは、その名残といえるかもしれません。

さて、この長者町通りの1~4丁目のなかでも4丁目エリアは目立って防火帯建築の多いエリアです。

確認できるだけでも、この狭いエリアに7棟の防火帯建築が建てられていました。いまはそのうち2棟が残っています。

昭和27年2月、長者町4丁目の借地人有志によって「長者町四丁目復興促進同志会」がつくられ市会議員宛に陳情書が出されました。

「陳情書 私共借地人一同は過去五十年の永きに渡り横浜市中区長者町四丁目に居住し各自営業に従事致して居りましたが、戦時中強制疎開のため止むなく転居し今日に至りたる者であります、その間、県調整連絡事務局、司令部、建築課、地主側等に対し種々懇願運動を続け、一日も早く接収解除の上、前記土地に復帰し町の発展と各自の事業の推進を念願と致して居ります。(後略)」(中区史市民編第3章より)

建物強制疎開、戦災、接収、と二重、三重の苦労を乗り越え、目標を共有する仲間たちが果たした復興の姿でした。

昭和29年度事業の長者ビル。4人の建築主と神奈川県住宅公社との協同によって長者町4丁目に建てられた併存住宅。角の理髪店の部分のみ1・2階店舗、あとは1階のみ店舗として設計された。このため、公社賃貸住戸数は2~4階の計23戸と変則的。(写真:融資建築のアルバム、横浜市建築助成公社より)

1階店舗部分はかなり改装されているが、理髪店は当時から変わっていない。自動車・バイク事業所は建物裏側へ大きく延びガレージが増床されている。上階賃貸住宅部分のかつて格子状だったバルコニー手すりがパネルで目隠しされてしまっているのが意匠的に残念。

個別再建で建てられた第三大場ビル(右端)。明治40年創業の横浜鶏卵(株)の会社所在地。この近辺に第六大場ビルもあることから大場氏はこの一帯の大地主だったのだろうか。(写真:関工務店社史「彰往考来」より)

いまもほぼ竣工当時のままの姿。隣接する小さな付属棟も当時のまま。交差点側(向かって左側)の防火帯建築2棟は神奈川県住宅供給公社が事業主体となり建て替えられた。接地階を商業床として通りの賑わいを継承しつつ新しい都市景観を生みだしている。


より大きな地図で 防火帯建築(長者ビルと第三大場ビル) を表示

2013年8月19日月曜日

キニヤビル

伊勢佐木町1丁目の、旧松坂屋本館と西館(旧松屋)にはさまれた場所にこのビルは建っています。

旧松坂屋本館と西館(旧松屋)は、横浜市民であれば誰でも知っているデパート建築として、2004年にいずれも横浜市歴史的建造物に認定されましたが、本館は惜しまれながら2008年10月26日に閉店し144年の歴史に幕を閉じました。現在は跡地に3階建ての商業施設が立地しています。

かえって存在感が増した(?)感のあるこのキニヤビルは、昭和28年度事業(融資)として築60年を迎えようとしています。戦災で焼失してしまったこの土地に、接収解除後の早い段階で4人の建築主によって3階建ての共同ビルが建てられました。

施工者は隣に残る旧松坂屋西館(旧松屋)も手がけた大林組。竣工当時の写真をみると、水平基調のモダンなガラスのファサードを覆うように、あえて鉛直方向の意匠を強調するように設けられたコンクリート製ルーバーが特徴的です。だいぶ改修された現在でもどことなくクラシックな雰囲気が漂うのも、この意匠によるところが大きそうです。

このルーバーに屋根面の庇を支える構造的な意味があったのか、それとも単なる意匠的な理由なのか、あるいは日射を緩和する環境的な意味があったのか、定かではありませんが、少なくとも昭和53年に現在のような歩行者専用道としてのモール化工事が行われた直後までは竣工当時のままだったようです。

モール化する前の伊勢佐木町通りは、車道が中央を通り、両側の歩道上にはアーケードが設置されていました。このルーバーには、通行する車や、車道を挟んで反対側の歩道を歩く人たちからよくみえるように、多様な看板設置に対応できる機能的な意味が持たされていたのかもしれません。このような、いわば奥行きのあるファサードを持つ建築は、よくみると伊勢佐木町通りにはいくつかみかけることができます。

通りの主役が車から人間にもどったことが、ファサードの変化をもたらしています。

竣工当時のキニヤビル。2・3階を覆うコンクリート製ルーバーが特徴的。(写真:融資建築のアルバム、横浜市建築助成公社)

現在のキニヤビル。レンガ調のタイルで覆われ雰囲気がずいぶん変わったが一部に竣工当時の面影を残している。モール化によって看板を林立する必要がなくなった。

昭和53年のモール化工事のようす。左側に旧松坂屋本店とキニヤビルがみえる。(写真出典:OLD but NEW イセザキの未来につなぐ散歩道、イセザキ歴史書をつくる会著、神奈川新聞社)

昭和37年8月の伊勢佐木町通り。当時は道幅いっぱいの車で混雑した。歩道上のアーケードと、林立する看板群がみえる。(写真出典同上)


より大きな地図で 防火帯建築(キニヤビル) を表示

2013年8月13日火曜日

商栄ビル

馬車道通りにひときわ大きな共同ビルが建っています。

建築主9名と神奈川県住宅公社の協同による併存ビル(昭和29年度事業(昭和30年9月竣工))として、街区をコの字型に囲む配置が特徴的。この配置によって生まれた2面の隅切り壁面には、片方には大きな薬局の看板が掲げられ、もう一方はコンクリートむきだし、と、どちらも存在感たっぷり。

薬局は明治3年創業の老舗。創業当時は「紀伊国屋薬舗」という屋号がつかわれていましたが、家伝の薬「上気平安湯」が評判が良く3代目のときに現在の店舗名に改称。共同ビルの現薬局店舗地下には貯蔵室も設けられており、建築の際に積極的に設計参加したことがうかがえます。

戦前までの旧店舗は戦災により焼失。敗戦後の接収期間中は西区高島町で移転営業するなど厳しい時期もありました。

同ビル内の料理店も明治20年創業の老舗。やはり旧店舗は戦災で焼失し、敗戦後は磯子区でしばらく移転営業していた時期がありました。

戦後の馬車道通りは昭和40年代ごろまでは歩道にアーケードがかかり、日本で最初に街路樹が植えられた面影は失われ、ごく普通の商店街になっていました。その後、商店街活性化を目指した活動が行われ、アーケードが撤去、歩道が拡幅され、街路樹・街路灯やストリートファニチャも整備され現在のような特徴のあるまちなみに生まれ変わりました。

今年で28回目を数える「馬車道まつり」も、街路樹が戻ってきたまちなみに馬車が行き交っていた往事の賑わいを再現して見せてくれます。まちづくり推進の原動力に、開港以来の横浜関内の賑わいを支え続けてきた横浜の老舗商人たちのプライドが垣間見えます。

(参考:平安堂薬局会社概要、馬車道商店街協同組合ウェブサイトなど)

竣工当時の商栄ビル。1階店舗前の歩道上にアーケードが設けられていることがわかる。歩道幅員もいまと比べると狭い。(写真出典:融資建築のアルバム、横浜市建築助成公社)

馬車道まつりのようす。アーケードが撤去され、街路樹が植えられ、歩道が拡幅された。このような空間整備と乗合馬車再現のイベントが融合している。

関内駅側の隅切り壁面。平安堂薬局の大きな看板がひときわ目を引く。創業以来、多くの渡航者がこの老舗薬局で常備薬として「上気平安湯」を買い求めた。


より大きな地図で 防火帯建築(商栄ビル) を表示

2013年8月11日日曜日

徳永ビルと車庫棟

防火帯建築のほとんどは関内の旧日本人居住地か、関外に集中しているのですが、なかには関内の旧外国人居留地エリアに建てられたものもあります。

山下町に建つ徳永ビルもそのひとつ。建築主の徳永恵三郎は関東大震災直後の大正12年10月に元町で建設請負業を創業し、元町地区の洋風店舗や住宅の建築を手がけ民間業者として震災復興を支えてきました。

昭和20年3月に現在の徳永ビルの建つ敷地に移転し、戦後は山手の外国人専用住宅や洋館建築、あるいは在日米軍の外国人向け住宅なども手がけてきました。

昭和31年、神奈川県住宅公社との併存住宅として5階建てのビルを建てます。施工は本牧元町の関工務店。戦前の外国人向けアパート「ヘルムハウス」(平成12年解体)も請け負った実績のある指折りの施工業者です。徳永ビルの下層階には会社事務所が入り、当初は外国人向けアパートとしてつくられていました。その後、中庭側に建てられた車庫棟との間に渡されたブリッジが印象的。

このエリアは元町や山下公園、中華街が徒歩圏ということもあり、横浜のなかでも人気の住宅地のひとつ。昭和62年までは近くに同潤会山下町アパートメントも立地していました。現在の徳永ビルにはライブハウスやカフェも入居し、住居部分に入居するランドスケープデザイン事務所は以前、関内外OPEN!2にて、スタジオ公開参加したこともありました。車庫棟にはレンタルサイクル屋や雑貨屋、アートギャラリーなども入居しています。

建物の歴史もおもしろいですが、今がいちばんおもしろい建物のひとつですね。

(参考:徳永リアルエステート会社概要、関内外OPEN!2サイトほか)

竣工当時の外観。当時は1・2階が会社オフィスとして使われていたようだ。(融資建築のアルバム(横浜市建築助成公社)より)

現在は1階は改装されてカフェやライブハウスなどが入居し、通りの表情をつくりだしている。建物右手は中華街の蘇州小路。
ビル背面の中庭。左手の徳永ビル側からの増築、右手の車庫棟との間にわたされたブリッジなどが印象的。中庭に向き合った開放的な階段室のデザインは、閉鎖しがちな現代の集合住宅のそれとは真逆のアプローチで清々しい。奥にはレンタサイクルショップが入居し、その右手には雑貨屋、階段をのぼるとアートギャラリーやデッキスペースなど魅力がいっぱい。


より大きな地図で 防火帯建築(徳永ビル) を表示

2013年8月8日木曜日

萬国貿易ビルと早川ビル

横浜市建築助成公社が耐火建築融資をはじめたのは昭和27年度から。

初年度に7棟の防火帯建築が建てられていましたが、すべて建築主は1名による個別再建でした。
最小のものは建築面積が50㎡にも満たず、最大でも253㎡といずれも小規模なビルばかりでしたが、横浜の戦後復興はここから本格的にはじまったのです。

そしてこの7棟のうち5棟が万国橋通りと馬車道通りに面しています(うち3棟が現存)。
本町通りからみて海側が万国橋通り、陸側が馬車道通りで、この二つの道は横浜港初の近代的な埠頭として明治後期から大正にかけて建設された新港埠頭と吉田橋をつなぐひとつの道です。

弁天通りが、1872年に開通した桜木町駅を利用する外国人や日本人向けににぎわってきたのに対して、万国橋通りや馬車道通りは、船が停泊して荷物や人が往来する通りとして栄えてきました。吉田橋の先にはさらに伊勢佐木町通りへと続きます。

接収解除後に真っ先に立ち上がったこれらのビルから、復興を待ち望んでいた横浜商人の期待と底力を感じることができます。

横浜市建築助成公社による融資第一号の(融資第一号は港ビルでした。訂正します。2015.10.10)初年度融資を受けた萬国貿易ビル。当時の写真をみるとホテルとして使われていたことがわかる。戦後まで関内でしばらくみられた移民宿の名残りか、あるいは、外国人向けか。おそらく後者か。ガラス窓は、蔀戸のように開閉する形式のものだったらしい。

現在はギャラリーや設計事務所、セレクトショップなどが入居している。当時のスチールサッシは1階の一部にのこっているが開閉はできなくなっている。

馬車道通りの早川ビル。現在は2、3階に指圧・マッサージの治療院が入っているが、竣工当時はレストランだった。隅切り部に上階のエントランスが設けられためずらしい設計。

隣接するビルの側には外階段が設けられていたが、現在は取り除かれ、壁面に鉄扉だけが残されている。


より大きな地図で 防火帯建築(萬国橋通り・馬車道通り) を表示

2013年8月6日火曜日

公社ビル

原ビルに隣接して6階建てのビルが建っています。

神奈川県住宅公社の自社ビルとして、原地所から土地を取得し昭和33年に建てられたものでした。昭和48年には横浜公園近くの新社屋に移転したため、自社ビルとしての使用期間は15年ほどでしたが、その後も(社)土地建物保全協会や(社)かながわ住まい・まちづくり協会、民間の設計事務所などが入居し、横浜の住まい・まちづくりを支え続けてきた建物のひとつでした。

県公社は住宅金融公庫の設立にあわせて昭和25年9月15日に発足。その後、花園橋傍の駐留軍用キャバレーとして使用されていた建物を間借りしたり、横浜駅西口に木造の事務所と管理人用バラック住居を建てたり転々としていましたが、西口の市街地整備により弁天通りに移転することになりました。(参考:「公社住宅の軌跡」神奈川県住宅供給公社)

設計事務所3社による非公式の設計コンペが行われ、最上階の住戸は当時としては珍しいメゾネット形式が採用されました。原ビルから延長する形でコの字型の配置で街区を構成し、弁天通り・太田町のそれぞれの通り側から街区内部への引き込みがデザインされるなど、県公社による防火建築帯造成の考え方とその意欲がよくわかります。

横浜で戦前から3代にわたり営業していた理髪店が入っていた時期もありました。隣接する原ビルは、なかなか店舗が埋まらず苦しい経営が続いていましたが公社ビルが建ってようやく急速に店舗が埋まったようです(「住宅屋三十年」畔柳安雄)。公社職員にとっても思い入れのある建物として、現在は静かに建て替えを待っている状態ですが、横浜復興の一翼を担った建物として後世に語り継がれることを願います。

竣工当時の公社ビル(「横浜市建築助成公社20年誌」より引用)。2階事務所部分のガラスの水平連続窓と、1階隅切り部の特徴的な意匠、太田町から街区内部への引き込み動線などが印象的。関内大通りの路面電車の線路もみえる。

現在の公社ビル。周辺は大きく変わった。半世紀を経て、関内大通り沿いの5本の銀杏並木も大きく生長した。


より大きな地図で 防火帯建築(公社ビル) を表示

2013年8月4日日曜日

金港ビルとLORDビル(仮称)

弁天通り1丁目に気になる建物が2棟あります。

横浜市建築助成公社から昭和29年度融資を受けている共同ビル。
助成公社による「融資耐火建築調」によると昭和27年度から融資事業をはじめてから60棟目にあたり、それまで多くても5人の建築主による共同建築が最大数であったのに対して、この共同ビルは8氏の建築主による共同建築。
県公社との併存型ではなく、個別再建型の共同ビルです。

そしてそれまでの共同ビルが3階建てか4階建てが多い(防火帯なのでできるだけ中層化されることが望ましかった)のに対してこの共同ビルは2階建て。
竣工当時の写真を見ると、2階部分を一体的にデザインしたガラスのカーテンウォールが目を引きます。極めてモダンなデザインが用いられると同時に、建物の妻側には、将来の増築を見越した角だしの処理がみえます。

現在、この建築はどうやら分節されて2棟になり現存しているようです。
中央部分(仮にLORDビルと呼んでおきます)は分節された当時のまま、半分ファサードが隠れていますが、ガラスのカーテンウォールもみえます。
南端部分は増築され、現在は3階建てのビル(金港ビル)として多くのテナントが入居しています。竣工当時の写真にみえる上階への入り口は、現在はビル中央部分に位置し、2、3階のアクセス専用として使われているようです。

どうしてこういう経緯を辿ったのかはわかりませんが、スチュワート・ブランドの「How Buildings Learn」のように、学びつづける建築の姿がそこにありました。

竣工当時の写真。南側の妻面に将来の増築を見越した角だしの処理がみえる。2階部分のガラスのカーテンウォールが極めてモダンな印象。(写真出典:融資建築のアルバム(横浜市建築助成公社)1957)


中央部分が一部そのまま現存している。2階のガラス面もおそらく当時のまま。

南側は分節後に増築され現在は3階建てのビル(金港ビル)になっているようだ。
昭和33年当時の防火建築帯造成状況図からの抜粋。


より大きな地図で 防火帯建築(金港ビルとLORDビル(仮称)) を表示

2013年8月3日土曜日

復興建築助成株式会社(イセビルと伊勢佐木町共同ビル)

戦前(関東大震災後)の話になりますが、ちょうどいま横浜市内の3館(横浜都市発展記念館、横浜開港資料館、横浜市史資料室)で関東大震災90周年の記念展が開催されていることもあり、とりあげてみたいと思います。

関東大震災は横浜市において震災被害世帯率95.5%(東京市は73.4%)に達し、壊滅的な被害を受けました。残存家屋は5000戸に満たなかったといわれています。

不燃化を進めるために民間出資や東京市・横浜市などの公的資金による協同出資(東京市と横浜市の出資比率は5:1) により大 正15年に復興建築助成株式会社が設立され、昭和18年までの間で東京市859件、横浜市75件の助成実績を挙げました。当時の横浜市中区の鉄筋コンク リート造建物約240棟のうち約3割が助成会社からの助成を受けたものであり、耐火建築化がなかなか進まなかった当時において貢献度は高かったようです。 (以上、栢木まどか・伊藤裕久、横浜における復興建築助成株式会社と共同建築、日本建築学会大会学術講演梗概集2005年を参考)

伊勢佐木町商店街界隈にのこるイセビルと伊勢佐木町共同建築ビル(一部)は、現在も当時の面影を残しています。

昭和2年建築のイセビル。現在も伊勢佐木町商店街のゲート脇に建ち商店街を象徴する建物のひとつとなっている。復興建築助成株式会社の横浜市における第一号。昭和4年には助成会社の横浜支店がここに置かれた。当時の市会議員上保慶三郎氏による建築として、「ビルディング 素描(其の二)『大横浜』1930年第3号」には「復興建築の尖端を押し切つて進んだ勇気は推賞に値する」とある。茶色のタイルで縁取りされたアーチ型の窓が特徴的。終戦後は占領軍により接収された。

旧伊勢佐木町共同建築ビル(一部)。昭和3年建築で3人の施主が間口を分け合うかたちのコンクリート長屋だった。共用部分をもたないため3つの独立階段が用意され、このうち北側の1戸が建て替えられているが、南側の2戸分が残っている。かなり改変されているが、独立階段室のファサード意匠はよく保存されている。

より大きな地図で 防火帯建築(イセビル) を表示

2013年8月2日金曜日

弁天通り3丁目共同ビル(原ビル)

神奈川県住宅公社が手がけた最初の共同ビル(昭和28年度事業(竣工は昭和29年8月))。

焼け野原からいかにして防火帯をつくりあげていくか、それは単に建築技術だけの問題ではなく、ここで商売が成り立つのか、そもそもこれから周りに人が住んでいくのか、といった土地所有者の不安に答えなければならない問題でもありました。

下階を店舗に、上階を住居に、というヨーロッパにみられる下駄履き型の共同ビルのイメージはこの問題に対するひとつの解答でした。区分所有の概念のなかった当時の日本において、超法規的な事業手法が工夫されました。何よりもまず前例をつくることが重要だったのです。
こうしたなかで、原ビルのオーナー原良三郎氏は、神奈川県住宅公社と横浜市建築助成公社からの要請を受け、病床から次のように応えたとあります。

「万一これが不成功に了っても横浜復興の捨て石になれば本懐」(「住宅屋三十年」畔柳安雄)

原良三郎氏については、機会を設けて詳しく紹介したいと思っていますが、横浜の早期復興を願う献身的な協力があったことをまずご紹介しておきたいと思います。結果的に原ビルは民有地に建てられた国内初の階層区分所有ビルとなりました。

しかし、竣工してからは蕎麦屋が一軒開業しただけで、2年ほどは他の店は開業しては閉店するという状況がつづいたようです。この時期、原氏にとっても融資返済の見通しがたたず厳しい状況が続いたであろうと想像します。しかし前例ができたことで、県公社は着実に事業実績をのばしていきます。

開港150周年を機に、関内まちづくり振興会が弁天通りで関内ハイカラ市をはじめました。毎年11月に開催されるこのイベントを通じて、戦前最も栄えていた弁天通りに思いを馳せることができます。

竣工後しばらくは蕎麦屋1軒のみだった。下層階が奥に深く、2階のテラスを兼ねる設計になっている。隅切りを設けるデザインもすでにこの段階で確認できる。(写真は「公社住宅の軌跡」神奈川県住宅供給公社より引用)

現在の原ビルと弁天通り(関内ハイカラ市のようす)


より大きな地図で 防火帯建築(原ビル) を表示

2013年8月1日木曜日

はじめに

このウェブサイトは横浜関内外地区にのこる(あるいはなくなってしまった)防火帯建築を紹介するサイトです。
横浜には、戦災と長期接収の二重苦を乗り越えた努力の跡がたくさん残っていますが、これを紹介するまとまったサイトがなかったためつくりました。

このサイトでは、「防火建築帯」 と「防火帯建築」の二つの用語を意識的に使い分けることにしています。

「防火建築帯」は耐火建築促進法(昭和27年)のなかの法律用語です。この法律は、同年4月に発生した鳥取大火を機につくられました。
横浜では、戦災・接収の二重苦からの復興をはたすために、この法律にもとづき当時の横浜市建築局長内藤亮一によって防火建築帯づくり(防火建築帯造成事業)が計画されました。
最初期は中心部を総延長32.4kmの計画として、そしてこれは少しずつ延長され、昭和33年頃には総延長35kmを超えました。

しかしこれはあくまで計画(つまり目標)であり、昭和36年に法律が廃止となる(同年に、防災建築街区造成法が施行されたため)までの9年間と、横浜市が独自に経過措置を設けた1年間を加えた10年間に横浜中心部に造成された間口長さは最終的に約6kmに留まりました。(横浜市建築助成公社による融資実績として。非助成分を加えた間口長さは約9km)
このため、「未完の事業」として事業としてはいわば中途半端なまま終わってしまったと誤解されることが多いようです。

「防火帯建築」は通称であり法律用語ではありません(法律用語としては「耐火建築物」)が、横浜の特徴をよく表現していると思います。
つまり、帯であるまえに建築であるということ。ひとつひとつの建築の集積が帯を成し都市をつくるということ。です。夢のある希望のもてる目標を高く持ち、官民がそれぞれ努力して次の世代に胸をはることのできる都市を残していく。

その精一杯の努力が6kmにも達していたのです。

私たちの身近に残っている、とりたてて名前も付けようのない建築に目を向けていきたいと思います。

横浜市防火建築帯造成状況図(横浜市中央図書館蔵)
昭和33年3月横浜市建築局