2013年10月31日木曜日

早川ビル・吉村ビル

伊勢佐木町と対岸の宮川町を結ぶ宮川橋の通行禁止が解除されたのは終戦から11年以上が過ぎた昭和31年10月15日のことでした。

このあたり一帯は商店と住宅地からなる繁華街でしたが、広域に接収されており、橋の通行も禁止されていたためまさに近づくことさえできない区域だったと言えます。

接収解除と同時に、地元で復興計画が協議され、この協議によって福富町東通りから宮川橋に至る延長120mの道路の両側の地区について、モデル商店街建設構想が打ち出されました。建築物の形態を統一し、防火建築帯の指定にも沿う街並みをつくり出すために、横浜市初の建築協定(全国では2番目)が結ばれました。来街者に安心して買い物を楽しんでもらうために建築壁面線の後退も取り決められました。

その後、横浜市建築助成公社から昭和32年度融資を受けて、最初の個別再建型ビルが5人の共同建築主によって建てられます。この5人のうちの1人、早川実氏は地元土地所有者の代表として福富町建築協定委員会の会長を務めていた人物でした。

福富町通りは現在は外国人経営の店舗や夜の繁華街として定着し、かつての伊勢佐木町の裏通りとしての庶民の町の面影を見いだすことは難しくなりましたが、防火帯建築の多くは建て替えられることなく当時の復興建築のようすを今によく伝えています。

5名の建築主による共同ビル。1階部分の壁面後退とアーケードが確認できる。従前の土地所有区分のままだろうか、5つの間口を持つ縦割り所有型の共同ビルとなっている。(横浜市建築助成公社20年史より)

現在の早川ビル・吉村ビル。ビル背面側と屋上には土地所有区分ごとに増築されたり、小屋が建てられている。2、3階にはそれぞれの間口部分1階から独立し てアクセスする計画とされている。向かって左端の間口(早川ビル部分)は上階へのアクセスに加えてビル裏側への抜け道が飲食店街として計画されている。

福富町周辺は戦前は商店や住宅地からなる繁華街として庶民に親しまれていたため、宮川橋の通行禁止が解除されたことは地元民にとってもうれしいことであった(昭和31年)。(写真出典:かながわの記憶、神奈川新聞社)



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2013年10月15日火曜日

長者町二丁目第一・第二共同ビル(現存せず)

数年前に高層マンションに建て替わるまでは、長者町2丁目で約100mにわたる防火建築帯として長い間存在していた2棟のビルです。

昭和34年、35年の融資を受けた事業として、いずれも施工は関工務店によるもの。関工務店はヘルムハウス、山手カトリック教会などのほかに長者町通りを中心に多くの防火帯建築も手がけた明治18年創業の老舗工務店ですが、2009年に残念ながら倒産しています。

長者町二丁目付近は、これまで大きく4つの表情を見せてきた地域です。

最初は明治15年に遊郭移転地として永楽町、真金町が指定されたことに始まります。移転までの仮営業地として長者町1、2丁目付近に店が建ち並び、水天宮周辺で爆発的な賑わいを見せ始めた盛り場としての表情。(水天宮は戦災被害と境内接収のため、現在は南区南太田に移っている)

次に大正8年に発生した埋地火事(3248戸焼失、罹災・負傷者2万3千人)の復興過程で、道路が拡幅整備され延焼防止がはかられた市内有数の防火地区としての表情。そして、関東大震災後の復興過程で電車軌道が敷設され市電網が整備された交通の要所としての表情。

埋地地区とその周辺地域は、次第に輸出関連業者や洋服布地の問屋などの職人町として根付いていきます。関内や伊勢佐木町界隈が産業や娯楽の最先端の町になっていったとすれば、埋地地区とその周辺地域は貿易商業都市の発展を陰で支えてきた労働者、技術者の町になっていったわけです。

そして最後は戦災復興でつくられた防火建築帯としての表情。

長者町二丁目の防火帯建築に入居していた、あるピアノ店は、販売業から音楽教室へと事業改革を進めながら、一方でピアノ技術者の父から受け継いだ技能を活かした中古ピアノ販売を続けています。

次にこの町はどのような表情を見せてくれるのでしょうか。
(参考:中区史)

建設中のようす(写真:関工務店社史「彰往考来」より)。写真右端に市電と路面に線路がみえる。写真左側の隅切り部の側壁には将来の防火帯建築延長を見越して窓などの開口部は設けられていなかった。

2000年のころの写真。1階店舗の奥(ビル背面側)には3畳間の和室があったらしい。ビル2棟はいずれも高層マンションに建て替わっている。


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2013年10月1日火曜日

第二イセビルと第三イセビル

防火帯建築にはそれぞれ建築主がいます。建築主は事業者や住宅公社などの企業・団体である場合もあるし個人である場合もあります。

そして、個人のなかには親族(兄弟や子)によって複数の再建ビルを建てた人たちもいます。第二イセビルと第三イセビルもそのひとつ。ほかにも未確認ですが、横浜市建築助成公社から融資を受けた人たちで同姓の場合には同様のケースがあるのかもしれません。

(第一)イセビルは以前ご紹介した、関東大震災後の復興の尖端をきって当時の市会議員上保慶三郎によって建てられたビルでした。

第二イセビルは昭和29年度融資(建築主:上保嘉保)、第三イセビルは昭和31年度融資(建築主:上保元子)を受けて、それぞれ単独再建型のビルとして建てられました。施工はいずれも大林組。

上保慶三郎は、1885(明治18)年、中区扇町生まれ。長崎の露語学校を卒業後、ロシアにわたり洋服やラシャ類を研究し帰国。二十歳の若さで洋品店を開業した人物でした。戦前、戦中にかけて25年間市会議員を務め、敗戦間もない昭和21年1月17日には伊勢佐木町振興会を組織し自ら会長職に就きました。(参考:ハマの建築探検)

戦後、振興会は慶三郎を中心として接収解除陳情を繰り返しながら、返還が叶った土地についてはかつての地権者に店を出すように働きかけていきます。(参考:中区史)

第二イセビル、第三イセビル、もこうした経緯のなかで生まれた防火帯建築。復興の精神は、親から子へ、子から孫へと受け継がれていたのではないでしょうか。

第二イセビル竣工当時のようす。隣り合うビルと共に防火帯を構成しているのがよくわかる。

第二イセビルの現在のようす。竣工当時のままに見えるが、建物裏側はかなり増築されている。2階の窓枠は付け替えられているところが多い。

竣工当時の第三イセビル。何より屋上に設けられた時計台が目を引く。当時はまだ長者町通りに路面電車が通っており、通勤や買物で利用する人たちにとってこの時計台は大切なランドマークだったのではないだろうか。

第三イセビルの現在。時計台が姿を消してしまっているのが残念。


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