2014年1月21日火曜日

小此木第一・第二ビル

京急線高架下日ノ出スタジオにほど近い末吉町に建つ小此木第一・第二ビル。

昭和32年度融資を受けて、いずれも神奈川県住宅公社との併存ビルとして建てられました。
施工は同じく末吉町で大正5年に創業した渡辺組。当時の建築主は「金港倉庫株式会社」とあり、これは現在のビル所有者である株式会社小此木の出発点となった会社でした。

小此木家は横浜開港以来の歴史にも関係の深い家柄です。かながわ検定でも出題されたことがあり、ご存じの方も多いかも。神奈川県民で親・子・孫の3代続けて国会議員を務めた4家系のひとつです。しかし意外にも横浜での小此木家の歴史は、明治中頃になって小此木彦四郎氏が埼玉から横浜に出てきて竹屋をはじめたことにはじまります。

その後、竹屋から材木商へ、そして貯木場の管理運営から倉庫業へ。業務内容の変遷はそのまま港の歴史とも重なります。

現在の株式会社小此木社長・小此木歌蔵氏(歌治氏の孫)は神奈川倉庫協会、大黒ふ頭連絡協議会の各会長を務め、改革に取り組む一方、横浜開港150周年の際には横浜港振興協会や横浜商工会議所などで構成する「横浜写真アーカイブ実行委員会」の委員長を務め、横浜の先人達が残してきた足跡を後世に引き継いでいく活動にも取り組んでいます。

かつて関東大震災の復興で木材需要が急増した際、東京に近い鶴見沖に公設貯木場を作るべしとの声が東京の外材業者から出されます。これに大蔵省、そして横浜税関まで同調します。横浜は官民挙げて奮起。建設運動の結果、新山下に貯木場を建設することが決まり、当時の有吉忠一市長は「どうせつくるなら大貯木場を作れ」と号令をかけたそうです。

横浜の都市づくりは、権力や資金力を背景とした一気呵成というよりは、官民が共に汗を流しながらひとつずつ進めてきた都市づくり。戦災復興の小此木第一ビル・第二ビルにもその面影をみることができるのではないでしょうか。

(参考:横浜市建築助成公社20年史、融資建築のアルバム、みんなでつくる横浜写真アルバムウェブサイト、明るい横浜をつくる会三十年のあゆみ、ほか)

竣工当時の小此木第一ビル。1階には「(株)金港倉庫」の文字がみえる。2階から上は18戸の県公社住宅が計画されたが現在は払い下げられている。

現在の小此木第一ビル。敷地形状の制約から、表通り(写真左側)に面する部分の住戸バルコニーは建物内部に組み込まれているが全戸にバルコニーが用意されている。

竣工当時の小此木第二ビル。2階から上は33戸の県公社住宅が計画されたが、これも現在は払い下げられている。第一ビルと向かい合う部分(写真左側)は片廊下、表通りに面する部分(写真右側)は住戸バルコニーが、それぞれ面するように計画されている。このためその中間部分のコンクリート壁面がデザイン上のアクセント。

現在の小此木第二ビル。表通りに住戸バルコニーを持ってくるデザインは馬車道商栄ビルなどいくつか確認できる。居住者の生活感が通りの景観ともなっている。

末吉町に隣接する若葉町一体は、接収当時、米軍の飛行場として広域に使用されていた。写真奥に京急線高架がみえる。(写真:児林嘉五郎氏、写真集「昭和の横浜」(横浜市史資料室)より)


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