2014年2月26日水曜日

原富太郎と原良三郎

今回は建築ではなく、横浜の復興を語る上で欠かせない2人の民間人の紹介です。

原富太郎氏は慶応4年(1868年)生まれ。1892年に横浜関内の豪商・原善三郎の孫・屋寿(やす)と結婚し原家に入りました。原家は代々生糸の輸出貿易に関わってきた商家であり、富太郎は人望厚く商才に長ける実業家としてすぐに頭角を現していきます。京都や鎌倉から移築した古建築のコレクションである三渓園は市民向けに無料開園されるなど文化事業、慈善事業にも早くから熱心な人物でした。

1923年、富太郎が54歳のとき関東一帯を大震災が襲います。横浜は市街地のほとんどを焼失(被災率95%超)。富太郎は震災を機に一切のコレクション活動を辞め、横浜市復興会会長を務めながら昭和14年に70歳で亡くなるまで、横浜の復興、とくに生糸産業の復興に私財を投じ心血を注いでいきます。

このころの横浜は大都市東京に比べれば人口規模で1/5(東京市が当時約220万人であったのに対して横浜市は42万人)に満たず、都市の歴史はわずか60年あまり。帝都復興事業でも東京と比べて横浜の地位はきわめて低い扱いとなりました

「・・国家の援助にまたなくてはならないのは当然でありますが、しかしこれとても、われわれは先ず自ら背水の陣を布いて、身を捨ててかからなければ、他からの同情も期待できるものではありません。われわれは横浜という焼け残りの孤城に踏みとどまり、ここに籠城して必死の戦をたたかい、若し事ならなかったならば、ともに枕をならべて討死する。その覚悟で以って臨まなくてはならぬと信ずるのであります。・・」(第一回横浜市復興会での原富太郎スピーチより)

原良三郎氏は明治29年(1896年)に富太郎の次男として生まれます。関東大震災当時は米国コロンビア大学に留学中。その後帰国し、兄善一郎の急逝を受けて富太郎の事業を引き継ぎます。そして迎えた終戦。横浜は5月29日の大空襲によって市街地のほとんどを焼失していました。

戦後、良三郎氏は戦災被害を受けた三渓園を私鉄の買収提案を蹴って横浜市に寄付。富太郎の残したコレクションの出版(三渓画集)に取りかかります。ようやく横浜が接収解除されはじめた昭和28年、今度は防火帯建築による市街地復興を模索していた神奈川県住宅公社から良三郎に白羽の矢がたちます。焼け野原となった関内にビルを建てても誰も来ないと敬遠され続けた事業計画に、良三郎氏は病床から応えます。

「万一これが不成功に了っても横浜復興の捨て石になれば本懐」(「住宅屋三十年」畔柳安雄)


震災復興の中心として奔走した父・富太郎氏に、戦災復興の矢面に立った自分を重ねていたと思うのは考えすぎでしょうか。父に比べれば決して目立った活動をしていたわけではありませんが、県公社による防火帯建築第一号となった原ビル以降、徐々に共同ビルの申し込みが増えていったことを踏まえると、良三郎氏の遺した足跡、引き継いだ精神もまた、横浜にとってかけがえのない財産であろうと思います。
(参考:横浜市復興会誌、「有隣」396号(有隣堂)、 「住宅屋三十年」畔柳安雄、ほか)

原富太郎氏

1929年4月24日に開催された、震災後5年を経ての復興祝賀会のようす(横浜市史資料室蔵)。前列左から二人目が富太郎氏。普段は飲み歩くことのない富太郎氏だが、震災後は市民を元気づけるために積極的に街に繰り出していたという。

原良三郎氏(左)有隣396号より(昭子氏所蔵)

2014年2月7日金曜日

若葉町二丁目共同ビル

接収当時、一帯が飛行場として使用されていた若葉町。いまはその細長い町の形状だけがわずかに接収当時のようすを伝えています。

90年代以降、若葉町は外国出身の人たちが多く移り住むまちに変わりました。日本一の「タイ・ストリート」と呼ばれたこともあるほど、現在は国際色豊かな裏繁華街へと変貌しています。3丁目には2スクリーンのミニシアター「ジャック&ベティ」があります。前身は接収解除後の昭和27年クリスマスにオープンした「横浜名画座」。一度は閉館したこの映画館を再開させたのは横浜生まれの若き経営者たちでした。ウェブサイトに「一日中、映画と若葉町に染まってほしい。」とあるように、街ぐるみの「よこはま若葉町多文化映画祭」なども開催されています。

若葉町にはもうひとつ、戦後の焼け跡から始まった伝説の居酒屋「根岸家」が2丁目にありました。和食、洋食、ありあらゆるとメニューがあり、24時間営業で年中無休。バンドが入り、米兵も出入りし、値段も庶民的で多くの市民に親しまれたそうです。しかしオリンピックの頃を境に次第に賑わいを失い、昭和55年閉店。直後に出火に見舞われ焼失しました。

若葉町2丁目共同ビルは、この根岸家の向かいに立地していました。3名の建築主と神奈川県住宅公社との併存型の共同ビル。県公社事業としては第一号の原ビルと同年度の最初期のものです。3階・4階に住戸が積まれ、廊下側ではなく居室側が道路に面して並べられているため、1・2階の店舗部分と一体感のあるファサードをつくりだしています。裏には木造二階家も増築されているようです。

ビル下層階の店舗群、一体感のあるファサード、加えて住居の集積と裏の増築などによって、アジア的な雰囲気がさらに強化されているようにも見えます。根岸家が向かいにあったころはどのような賑わいの通りだったのでしょうか。

これまでも、そしてこれからも、横浜のサブカルチャーの発信源として、人と店の入れ替わりをしなやかに受け入れながら庶民の歴史と文化を生み出す空間であってほしいと思います。
 (参考:融資建築のアルバム、建築助成公社20年史、「聞き書き 横濱物語」(聞き書き/小田豊二、シネマジャック&ベティ公式ウェブサイト)

竣工当時の若葉町2丁目共同ビル。1・2階は店舗、3・4階は住居として計画されているが、2階と3・4階部分の外観上の違いはない。写真左右端にそれぞれ上階へのアプローチが設けられている。

NEGISHIYAの看板が見える当時の根岸家の写真。ROBERT HUFFSTUTTER氏のflickerサイトによると日本的な風景として屋根上のようす(roofs)に目を奪われたとのこと。1961年撮影。

現在の若葉町2丁目共同ビル。夜は飲食店が開き、裏繁華街の様相をみせる。日中は住民の生活感がただよう静かなたたずまい。建物裏側には木造2階家が増築されている。写真左側の道向かいにかつて根岸家が建っていた。どちらかというと裏通りの宿命か、近年、周辺には時間貸し駐車場などが広がりつつある。
 

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